慈雲寺の境内には禅寺らしく枯山水庭園があります。白礫を敷き詰めて波紋のような筋を立てた平面のあちらこちらに岩を配置して、独特の世界観を表現しているようです。
この、抽象化され記号化されたような世界観の表現技法は、室町時代の禅宗に起源があるようです。
枯山水庭園の先には、真新しい八角形の清浄光殿があります。経典を納めた建物でしょうか。
その奥には宿泊施設のような堂宇があって、背後に楼閣が建っています。
禅寺は、各地を托鉢・行脚して修行する禅僧たちが多く離合集散する場所ですから、かつての旦過寮のように修行僧が宿泊する施設ではないかと思います。禅僧にとっては宿泊や食事も修行ですから、禅堂のようにも見えます。
修行の場といえば、本堂の南側にも広壮な堂宇があります。庫裏を兼ねた座禅道場ではないかと思われます。
境内にこれほどに規模が大きな建物が集まっているということは、禅宗の世界での人の行き来や離合集散が盛んだということなのでしょうか。
修行のために互いに僧を招き合う行動スタイルに合わせて、人の建物が設営されているのではないか……これは、信州の禅寺を訪ねたときに、いつも感じることですが。
◆天圭(天桂)の松◆
▲天圭の松 戦国時代にこの寺を再興した天圭(天桂)禅師が植えたという
横に広がった枝を多数の支柱が支える
冬には雪吊りの縄で保護
慈雲寺は寺紋のひとつが武田菱であることからもわかるように、戦国時代の武将、武田信玄ゆかりの寺院です。戦火でひとたび灰燼に帰したこの寺を武田家の大きな支援を受けて再興したのが、天桂玄長禅師で、彼は信玄の叔父だったのです。
諏訪地方は甲斐から近く、武田家の信濃遠征の拠点となりました。武田家は人心掌握や統治のために、寺社を手厚く保護支援したのです。
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