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南佐久地方~
飯山・奥信濃地方
南佐久から飯山奥信濃まで 千曲川流域をめぐる旅

佐久甲州道沿い 八千穂穂積の集落を歩く

  JR小海線八千穂駅で降りると、近くに大正時代の古民家商家が並ぶたいそう美しい街並みがあります。
  街並みは、佐久甲州道とも呼ばれる北国街道佐久脇往還に沿っいえる、千曲川河岸段丘上の集落です。
  歴史的な街並み景観の保存に積極的な黒澤酒造の努力によるところが大きいといえます。


黒澤酒造を 中心とする古民家町家の家並み

新海三社神社の三重塔を訪ねる

  明治維新の前まで、日本では神仏習合の格式で神社と寺院が融合していました。明治政府は廃仏毀釈政策によって神社と寺院を分離し、寺院を破壊する運動を仕かけました。やがて日本の歴史・文化を保存する政策に転換したものの、多くの寺院や神社が破却されてしまいました。しかし、佐久市田口の新海三社神社は、三重塔を大切に守り続けました。


社殿の背後に三重塔(仏舎利殿)が屹立している

佐久平 野沢街あるき

  佐久市野沢は、千曲川左岸にある鎌倉時代からの古い城下街です。野沢の街の近くには伴野城跡や真言密教の薬師寺、不動尊、ピンコロ地蔵尊、念仏踊りで有名な金台寺などの名所があります。
  史跡や寺社をめぐって歴史を探り、千曲川河畔の佐久平の往古の姿を想像してみてはいかがですか。


佐久市野沢伴野城跡の城山公園の入り口

耳取の城跡と集落を探索する

  耳取は鎌倉後期から室町前期には城砦と城下街があったようです。千曲川河岸に築かれた耳取城は、小諸城の雛形となったと見られます。
  近隣の高原には奈良時代から官牧と官衙、密教寺院があったようです。耳取の集落には古代に創建されたらしい密教寺院の跡と諏訪社(彌美登里神社として現存)があります。


禅刹 玄江院境内の南端にある桝形石垣は戦国時代以前のものか

小諸城と城下街、そして街道の宿場街

  小諸の城下街は北国街道の宿場街でもあった。そして江戸初期に築かれた城は、河畔の谷底の田切地形を縄張りとしていました。
  ところが戦国時代の城跡は、谷の上の北国街道の脇にありましたが、新たな城下街の建設にともなって古い城跡は家老の屋敷となったそうです。


櫓門(矢倉)門づくりの小諸城大手門

北国街道海野宿を歩く

  北国街道海野宿は千曲川河畔に位置しています。2018年には増水氾濫で街の一部が被害を受けました。宿場の遺構は何とか無事でした。
  旧街道の路面の跡がいまだに保存されている貴重な史跡です。とはいえ、江戸時代の茅葺屋根の古民家は少なくなり、明治時代に蚕種卸業と養蚕で栄えた頃の広壮な町家住宅が残っています。


トタン葺きになった江戸時代からの茅葺造りの古民家

信濃国分寺を訪ねる

  奈良時代の信濃国分寺は、現在の千曲川河川敷にありました。往古には河岸段丘上だったと見られます。仏塔は七重搭だったそうです。ことほどさように、暴れ川、千曲川河畔の地形は大きく変わってきました。
  現在は上の河岸段丘に国分寺の境内はあります。しかし、移設の経緯はまったくわかりません。


信濃国分寺の三重塔は江戸時代に再建されたものだという

姨捨の棚田の里を歩く

  千曲川と善光寺平を見おろす姨捨山の中腹に、名月の里、姨捨の棚田地帯があります。風光明媚な名月の里はまた多くの俳人や歌人、文人墨客を呼び寄せてきました。長楽寺の境内には夥しい数の句碑、歌碑などが並んでいます。
  春から初夏の田植えの時期には、棚田の水面に無数の月が映ります。秋の紅葉も冬の雪景色もみごとです。


紅葉風景が翌朝には雪景色になった。長楽寺観音堂

崇福寺小森の千曲川石土手跡を探る

  太古、千曲川の支流、犀川は流水量も流速も圧倒的に大きかったので、屋代や杭瀬下辺りまで流れ下っていました。千曲川は、犀川が形成した善光寺平の扇状地におずおずと流れ出ていました。
  高低差のない扇状地の端を流れる千曲川は、何度も蛇行してゆっくり北流していました。そのため氾濫洪水を繰り返し、江戸時代には村落への水害を抑えるために湾曲部を石組で補強して流れを誘導しました。それが石土手跡です。


1962年頃の架橋用石垣護岸の跡

長沼をめぐる旅

  長沼には平安時代から藤原宗家の荘園や官衙があったそうです。1000年以上の歴史をもつ集落群です。
  戦国時代には武田信玄の前線陣地と言うべき城砦が築かれ、上杉家と対峙していた場所です。戦国末期からは北国街道の宿駅となって、江戸小時代には長沼城下に宿場街が建設されました。徳川幕府が佐渡から江戸に金を輸送する幹線輸送路となりました。


江戸時代の内町と津野村の集落を想像復元した鳥観図

千曲川の本流は小河原の崖下を流れていた

  1960年代におこなわれた河川改修と堤防建設まで、平安時代から1000年以上、善光寺平の北部で千曲川は何本かに分流していて、最主流は現在の須坂市小河原の段丘崖の下を流れていました。
  小河原は府r句からの城下街で、水害の脅威から安全な崖上の集落として繁栄してきました。


段丘崖の標高差は最大でメートルを超える


飯山城跡を探索する

  飯山は戦国時代、信濃を征圧した武田家と越後の上杉家が勢力範囲を攻防する最前線でした。千曲川河畔の丘の上に武田信玄は、前線基地として城砦を構築しました。
  それが飯山城の前身です。江戸時代にこの城砦は大きく改修され、現在の飯山城址の遺構となる城郭がつくられました。


城跡に再建された楼門。実際の歴史とは違う造りか。


禅庵 正受庵を探訪する

  映画『阿弥陀堂だより』で主人公の作家の恩師が住まう古民家が、この正受庵です。禅刹境内のなかの端正な茅葺の庵です。
  正受とは、禅庵を開いた高僧の法名で、真田家の庶子で、若い頃に熟練の剣術家だったそうです。
  自分の難しい立場から距離を置くために禅僧となって、ここに住んだのだとか。


飯山市街の北の郊外にある正受庵は端正な茅葺造り

古い密教修験の霊場だった小菅山

  小菅山は古代から密教修験の拠点だったようです。小菅山大隆寺という有力な寺院があって、神仏習合の格式のもとで周囲の集落は多数の宿坊と農民村落が融合した、高野山のミニチュア版だったそうです。
  ところが、明治維新における神仏分離と廃仏毀釈、寺社領地の没収によって、密教の霊場集落としての史跡はほとんど失われてしまいました。


小菅神社の境内にある旧大隆寺講堂

飯山 千曲川右岸の丘は菜の花公園

  小菅山の麓、飯山市瑞穂の千曲川河畔の丘の上に菜の花公園があります。耕作されなくなった水田畑作地帯の河岸丘陵に野沢菜を植えて広大な菜の花畑に仕立てました。
  公園の背後の山裾には――映画『阿弥陀堂だより』のシーンとなった――瑞穂棚田神戸の大イチョウがあって、季節ごとに人びとが訪れます。


春、河畔の丘は菜の花でおおわれる(菜の花公園)