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長野県木曽郡大桑村
 
  三留野宿を出て羅天から十二兼までは、木曾川両岸の山並みに圧迫されるような狭い峡谷を辿ってきました。
  ところが写真の風景は、大桑村の阿寺橋から東向きに見た木曽川左岸に広がる谷間で、下在郷から野尻宿方面の眺めです。
  ここから北東におよそ8キロメートル余りの道のりで、これまでよりもずっと開けた谷間が続いています。野尻から須原まで、木曾川両岸に500メートルから1キロメートル以上の幅の谷間です。

 
読書ダム湖の畔を歩く

  今回の旅の出発点は、国道19号の阿寺渓谷入り口交差点を左折して県道261号に入ったところです。十二兼から北上してきた旧中山道との合流点です。木曾川に向かって西に進めば、JR中央西線の踏切を越えて、阿寺橋にいたります。橋を渡れば阿寺渓谷の東端になります。
  そして、県道261号を北に向かえば野尻宿にいたります。この県道は、もともとは明治以降に整備された新中山道で、ことに昭和中期に拡幅と整備が進んだ道路だと見られます。
  古くからの下在郷の集落を通る旧中山道を歩く旅は次回に回して、今回は、まず阿寺橋界隈をめぐり、次に県道沿いの家並みを眺めながら一里塚跡まで歩いてみることにします。

■阿寺橋界隈を歩く■

  野尻城山の北西麓にあって木曾川を堰き止めているのが関西電力の読書ダムです。この堰堤水門によって膨大な水が堰き止められ、木曾川はダム湖になっています。
  ダム湖の幅は一番広いところで200メートルになり、長さは約2キロメートルにおよびます。木曾川の急流がダム湖で滞留して流速をほとんど失っうので、流水の破壊力はここでほぼなくなります。川面(湖面)は穏やかです。
  花崗岩質の山岳から流れ下る降水を集めているので、水底が見えるほどに水は清冽です。このダム湖の東岸に位置するのが下在郷で、読書ダムから北東に約1キロメートル離れています。


木曾川を見おろす下在郷の古民家


野尻城山は密教修験の山

  
  ダム湖をなす木曾川の東岸に下在郷の集落があって、その東に野尻宿の街並みが続いています。対岸は江戸時代から「川向う」と呼ばれてきました。城山の北麓斜面にある下在郷の地形は木曾川の支流群が形成した複合扇状地が連なる河岸段丘となっていて、豊かな農業地帯となっています。
  下在郷から野尻宿にかけての谷間の幅は1キロメートルほどあって、木曾川の峡谷としては開けた平坦地となっています。三留野宿を過ぎてから、両岸に急峻な崖斜面が続く狭苦しいV字峡谷を道のりにして4キロメートル以上も歩いてくると、幅1キロメートルほどの谷間がずい分開けた盆地に見えます。
  さて、阿寺橋は読書ダムから1.5キロメートル上流にあります。現在の橋は、十数年前に橋梁躯体の基礎部をそのまま残して、上部構造を鉄製トラスからアーチ型吊り橋に改修したものです。アーチは巨大な雲梯のような形です。
  アーチが支えている橋梁本体部の長さは145メートルほどで、河岸道路との接続部を含めた橋梁全体は170メートルくらいです。橋梁の下の木曾川ダム湖の幅は(通常の水位で)150メートルくらいです。
  橋の東岸は野尻城山の北麓の下在郷集落で、西岸は阿寺山(標高1568m)の尾根裾で、そこで北西側から流れてきた阿寺川が木曾川に合流します。阿寺川は、阿寺山の稜線と砂小屋山(標高1471m)から飯森山(標高1074m)へと続く稜線のあいだの谷間を流れています。


流麗さと重厚さを兼ね備えた構造


阿寺橋の上流側


アーチによって吊る構造になっている


木曾川河畔から下在郷の集落を眺める。背後は野尻城山の尾根。▲

阿寺橋東袂から北東方向の眺望。中央は雲に覆われた木曾駒ケ岳。▲

下在郷の家並み越しに阿寺橋と阿寺渓谷を眺める▲

読書ダムで扼されて木曾川はダム湖状になっている▲


奥の端の奥が阿寺渓谷。背後の峻嶺は飯森山。▲


読書ダムによってダム湖状になった木曾川(阿寺橋から)▲


阿寺地区(西岸)側からダム湖と阿寺橋を眺める▲


木曾川の上の天空に架かる巨大な雲梯のようなアーチ
■下在郷 県道沿いの家並み■

  明治時代になると、江戸時代の旧街道は、馬車や荷車が安全に通るように整備され、屈曲や起伏が激しい道を迂回する新しい街道が建設されました。野尻宿の街並みを抜けてきた中山道は、下在郷の一里塚の辺りから阿寺渓谷入り口辺りまで、ひとつ上の段丘を往く直線的な経路の「新中山道」に置き換えられました。現在の県道261号です。
  この県道は昭和中期に拡幅され、今は幅4メートル近い道幅になっています。明治後期頃から昭和中期まで、この新しい中山道沿いに住戸が並び、家並みができあがりました。今回は、そこを歩いてみます。


県道沿いの家並みもまばらで敷地はゆったりしている


道路と家屋との間に広い庭はない

  現在の県道261号沿いにつくられた家並みは、野尻宿のような宿駅の都市的な――密集した家並みの――集落ではなく、下在郷という郊外農村部の家並みとなっています。したがって、各住戸の敷地の形つまり敷地割は、宿場のなかのように稠密ではありません。
  間口が狭く奥行きが深い短冊型ではありません。街道に面した間口(敷地の幅)は大きくゆったりしています。
  とはいえ、城山から木曾川に下っていく城山尾根斜面の段丘上に造成された敷地なので、奥行きは浅いので、家屋と道路との間に広い前庭はありません。概して木曾谷の集落は狭い谷間にあって平坦地がわずかなので、各住戸の庭の面積がきわめて小さいか、あるいは庭がほとんどないという特徴がきわだっています。ただでさえ限られた敷地を庭に回すことができないということなのでしょう。
  耕作地はというと、城山の山裾から木曾川へと続く斜面には段々畑や棚田が連なっています。斜面の傾斜がきついので、田畑の形は等高線に沿って細長い帯状になっています。

  田畑が山麓斜面に拓かれていて、ところどころにある平坦地が狭いので、せいぜい数軒の家屋の集まりが小径沿いに分散しています。中山道はそういう分散的な集落のなかを通っています。
  そういう地形条件のため、旧中山道とは別に県道261号が建設されると、県道沿いに家並みがつくられますが、それもやはり分散的で大きな集落には成長しませんでした。


この先の谷間を蛇抜け沢が流れている


飯盛山方面を振り返る。県道沿いの家並みはまばら。


一里塚跡の手前から野尻宿方面を眺める<
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下在郷の県道261号沿いの家並み(北向きの景観)▲


県道沿いの家並みは明治後期以降にできたようだ▲


県道沿いの家並みは昭和期になって形成されたものか▲

木曾川を見おろす斜面の集落を県道から眺める▲


県道から西方を見おろして、阿寺橋方面を眺める▲


蛇抜け沢の上の段丘を往く県道と道沿いの家並み▲


県道の南方に見えるのは恋路峠の尖った峰▲


伝統的な建築様式、木曾風の本棟造りの家が並ぶ県道沿い▲

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