▲水田地帯のなかにある飯田神明社の鎮守の杜と社殿、大鳥居
往古、白馬村の姫川沿岸部は湿原だったそうです。14世紀から18世紀まで続く地球的規模での寒冷期には乾燥化が進む一方で、集中豪雨で氾濫や土石流も繰り返したとも言われています。基本的な趨勢は乾燥化だったようです。
気候変動のなかで、室町時代から周期の山岳部からより標高の低い山あい谷あいへの移住が進み、やがて姫川とその支流犬川流域の河岸段丘での村落形成と水田開拓が進んできたものと見られます。江戸時代の半ば以降には、姫川の近くの湿地への開拓が始まったのかもしれません。
▲鎮守の杜の端から望む集落と山岳: 遠見連山の尾根の奥は八方山
してみると、飯田神明社の元となる神社の起源――現在地よりも標高が高いところにあったでしょう――は室町時代後期まで遡るということになるのかもしれません。
神明社の大鳥居それ自体は、笠木・島木の反りがない石造りの神明方式ですが、貫と笠木・島木のあいだの中央に扁額(神額)が掲げられていて、全体として明神方式の形状のように見えます。つまり、ここでも古い歴史と明治以降の国家神道思想との撞着と融合が見てとれるのです。
神明社の拝殿と本殿(左): 本殿は諏訪大社系の造りになっている▲
|