▲樹齢500年を超える門前老杉の巨木
▲江戸後期(文政年間)建立の楼門
▲山門前に集められて整列した石仏たち
私は、白馬村を南下する旧道沿いのところどころに立てられた千国街道に関する説明板(濃茶色の地に白字で記されている)をいわば道標にして、塩の道をたどってきました。飯森宿の手前で小径は2つに分岐します。ひとつは集落中央毘に続く道。もうひとつは、西側の高さ100メートルほどの山の裾に向かう道。
「進路に迷ったら山沿いを行け」という街道歩きの直感にしたがって、わたしは飯森城跡がある低い山の下に進みました――ここではこの山を飯森山と呼ぶことにします。十王堂の湯の先で小径を南に曲がると、樹高が高い杉林が見えます。長谷寺の樹林です。
私は、飯森城と城下街の建設にともなって長谷寺が創建の地から現在地に移設されたのではないかと考えています。
▲山門の下から参道を振り返る
▲裏山から引かれた水路(示現閣前)
▲庫裏の結構も重厚で威風を払う
飯森城跡から見て長谷寺は鬼門(北東)にあたります。とすると、築城時に城砦と城下街の鎮護(鬼門除け)としてこの地に寺院を移して再建するのが理の当然と思われるからです。しかも、広い境内と重厚な結構の寺院は、迎撃の兵を伏せるのに最適ですから。
これも勝手な空想ですが、長谷寺の創建の地は、さらに山奥か、逆に飯森の街の中央部に近い場所にあったのではないかと見ています。そうでなければ、飯森城は鎌倉末から室町初期にすでにここにあって、長谷寺はそのときから鬼門除けとして現在地にあったということになるでしょう。
飯森の街中には十王堂があって、その50メートルほど西に名もない小さなお堂があります。ともに来歴は不明です。古代からここには千国街道のもととなった古道が通っていたということなので、古くは2つの小堂が大きな寺院の境内にあったとも考えられるからです。
▲野手に満ちた山水庭園と堂宇群
▲示現閣の扉
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ひとたび衰微した後に再興されたとはいえ、室町時代に創建の禅寺としての重厚さは今でも充分に感じられます。なにしろ、豪雪地帯ゆえに屋根の勾配が急な本堂、その大きさ、庫裏の壮大さと厳然とした結構、示現閣(禅修行に来訪した僧たちを宿泊所か)の威容の存在感は並々ならぬ印象。
豪雪地帯の山裾にある寺院の境内では、山から引かれた水利が堂宇を取り巻いて流れています。裏手の杉林のなかでは、水路は広がって池を形づくっています。
▲庫裏の屋根も急勾配だ
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