◆東徳寺の歴史◆
▲背後に山林が迫っている
東徳寺の開基開創については『信府統記』でも不明とされているそうです。江戸中期ですでに寺の由緒が知られていないけれども、佐野村に存在する古刹としてあつかわれているのです。
現在の本堂はかなり小ぶりで、端正で美しいのですが、横幅は2間ほどしかありません。しかし写真などの記録では、旧本堂は横幅6間で、中央の2間が向拝をもつ入り口を備えた、重厚なものでした。古くは七堂伽藍を備えた寺院だったのではないでしょうか。
貞享年間の「宗門改帳」では旦那数がわずか16となってますが、檀家数が少ない理由は、この辺りの領主家門の祈願寺だったため、あるいはさらに古く鎌倉時代以前に真言修験道場として開基されていたためではないかと考えられます。
ところが、明治維新の廃仏毀釈で廃寺にされて学校となり、やがて再興されるも、戦後に後傾住職が絶えてふたたび配され、数十年後に現本堂が再建されたのです。
▲塀後の山は修験の場だったか
▲山桜の並木の梢を見上げる
▲本堂脇から境内を見る
◆古い由来の氏神社制度◆
氏神社という仕組みが残っているということは、佐野村がこの辺りで最も古い集落だということを意味するのではないでしょうか。つまり、中世以降、佐野村がこの一帯の水田や農村の開拓の起点となったため、その時代の――開拓民の出身地の――氏神制度が継続して保たれたということです。
▲「お堂様」の脇の石仏群
あくまで私の勝手な想像ですが、鎌倉時代末期から室町初期に、仁科氏の傍流(おそらく沢渡家の先祖)が率いた集団が佐野峠を越えて、神城南部で開拓を始めたのではないでしょうか。
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