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▲神社脇を流れる谷川は農業用水となっている
飯森神社は、古くからの信州の農村における神社のあり方や立地条件をとどめているようです。すなわち集落から200メートルほど離れたところに鎮座しているのです。
一般の集落から程よく離れた位置にあって、人びとにとって特別の神域をなしていることを、その地理的な位置によって明示しているわけです。いつでも行ける親しみがある場所でありながら、神がおわす特異な場所で、集落との距離がいわば結界となっているのです。
私たち住民は、一方で遊び場や憩いの場、癒しの場として深い親しみを抱きながら、他方で畏れ敬う対象でもあるものとなっているのです。日常でありながら非日常を体感する場なのです。明治以降の近代化の流れのなかで、神社とその境内は住宅地やら道路・鉄道用地に削り取られ、そういう世俗のものに取り込まれ溶け込んでしまいましたが。
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▲端正で均整の取れた造りの神楽殿
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▲神楽殿と拝殿の間に立つ神木
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▲拝殿の内部の様子
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▲拝殿の扉上の軒裏
さて、飯森神社の創建については、南北朝時代の永徳年間(1381~84年)に勧請されたのが始まりとされています。祭神は水神だということです。伝承によると、当時、八方池に巣食う大蛇が村人に悪事をはたらいていたため、領主である飯森氏が八方池の畔に社殿を設けて祈願すると大蛇が現れることがなくなったということです。その後、領主だった飯森氏から崇敬庇護されただけでなく、周辺住民からも信仰され、特に雨乞い、水乞いに御利益があるのだとか。
この物語を別の解釈で読み解くと、大蛇は水神の化身である竜で、社を建立して尊崇すると、水神様が住民に福利を施すようになったということになります。おそらく水田を開くための水は豊富だったが、水害もひどかったということでしょう。
今でも、八方池は飯森神社の奥之院として信仰の対象となっているそうです。
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▲神明宮風にも見える本殿と拝殿
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樹林越しに拝殿と鍵螺鈿を眺める
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▲嗅いでい角地の石仏群
飯森神社にも歴史と神社施設の「ねじれ」があるようです。というのは、大鳥居は水神様を祀るにふさわしい明神様式の形状ですが、社殿は神明様式に近い形です。
明治以降の軍国化政策と国家神道イデオロギーによって、この神社もまた大和王権系の神社信仰の形式枠組みが「上から」被せられたのでしょう。しかし、戦後の深刻な反省から、神道思想の影響を取り除き、祭神を水神様だけにしたものの、社殿様式が直線的な形で残ったのではないでしょうか。
このことに関連して、境内の南側の草地は、往時には寺院があったものと推察されます。その理由は、八方池の社が「奥の院」という名前で呼ばれているからです。院とは神社ではなく、寺院の名称ですから。国家神道思想の神道は、明治維新での廃仏棄釈が在る意味で下敷きとなったので、現在の神社の状態が過去の歴史の断片を語っているようです。
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