古代から水の恵みのありがたさ、生存のありがたさを感謝する場として、姫川自然探勝園は「塩の道」を行き交う人びとに知られ、参詣やら祈りの場となっていたそうです。私もいにしえの旅人の気分を想像しながら、親海湿原と湧水源をめぐりました。
そこで、ドウカク山に登って下った道行きや湧水湿原からの帰路に森のなかで、荒神社や小さな祠、石仏群を見出し、人びとの祈りや「祈りの場」がどうであったに思いをめぐらせました。
それについて、ここで旅の記録として報告します。
▲山頂のハルニレの根元から空を見上げた
▲陽だまりで黄葉した幼木
▲朽ちつつある倒木を跨いで歩く
◆ドウカク山をめぐる◆
親海湿原からドウカク山の頂までは、およそ50メートルほどの標高差があります。道のりではおよそ700~800メートルで、したがって登山としてはかなり緩やかな勾配で、むしろ山歩きというべきでしょう。
ただし遊歩道には何か所か倒木が横たわっていて、途を塞いでいます。といって、歩くのに困るほどの障害ではありません。湿原を取り囲む丘陵山林では、樹齢から見て昭和中期に植林された杉がほとんどで、そこにホウノキやハルニレ、ヤチダモなどが入り混じっています。
山頂に近づくにつれて、高木のあいだのわずかに陽射しが射し込むところにシャクナゲが群生しています。ところどころにハルニレが屹立して、杉の群れに対抗しています。ハルニレの葉はカツラやシナノキの葉に似た形で黄葉し、わずかに梢に残っていますが、ほとんどは地面に落ちています。夏には葉を繁らせた枝を伸ばして日影をつくっているのでしょうが、初冬の今は、青空を見上げるられる空隙をもたらしています。
さて私は山頂から西側の急斜面の獣道のような狭い道――木枠で土留めした階段状の道で安全に歩ける――を下って、親海湿原の縁を回る遊歩道に戻りました。
◆三宝荒神社に参詣する◆
私は自然探勝園の入り口近くまで戻り、丘のあいだの遊歩道で湧水湿原を訪れ、そのあとで荒神社に向かう遊歩道で岐路に着くことにしました。
さて、荒神社に向かう遊歩道は湧水湿原から西に向かう小径で、杉樹林のなかにカラマツが混じっている丘の尾根を往きます。丘の頂部で遊歩道の北側脇に荒神社の鳥居が立っています。そこから石組みの階段をのぼると荒神社の社殿となります。
三宝荒神社は日本古来からの自然信仰や日常生活の場への感謝に根差す信仰が仏教文化と結びついて生まれた神を祀る社だとか。鳥居脇の説明板によると、鎌倉時代晩期(13世紀末)に甲斐源氏の裔、長澤伊勢の守長信が浅原氏の反乱に加担してこの地に潜んでいた頃、出雲大社から勧請して社を創建したそうです。
それから270年近くを経て荒廃した社を、長澤家の子孫、信正が1556年に再興し、そこからさらに3世紀を経て幕末嘉永年間に信正の子孫によって改築されたとのこと。
姫川源流湧水とその周囲の山林は、長澤氏ここに住み着くはるか以前、古代から近隣住民によって手厚く尊崇され荒神を祀る小さな社が営まれてきたものでしょう。長澤氏はその古くからの社に新たに正統性と威信を付け加えたのでしょう。
説明板は、最後にこう記しています。塩の道の旅人たちが清水(湧水)でのどを潤にやって来て荒神社にも祈りをささげた、と。古代に塩の道が開削された頃から、ずっとこの湧水は近隣住民と旅人たちに清冽な水を供給し続けてきたようです。
◆森のなかの小祠と石仏群◆
森のなかを歩いて荒神社から自然探勝園の入り口に向かう途中、小径の南側に小さな祠を見つけました。遊歩道から20メートルほど離れた樹下にある名もなき祠です。荒神社の摂社ということでしょうか。それとも独立の神を祀ったものでしょうか。
祠にお詣りしてから、園の入り口に戻ると、遊歩道の分岐点の傍らの樹間に石仏群があるのに気がつきました。秩父や西国の観音霊場巡礼のことが刻まれた石塔もあって、その周囲に小さな観音像が並んでいます。遊歩道は往時は、塩の道佐野坂峠越えの脇往だったのか、あるいは還内山集落に連絡する道だったのでしょうか。
▲分岐点に立つ荒神社の石塔
▲道の向かい側にある石仏群
▲石塔脇に小さな観音像像や不動明王像が並ぶ
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