■史料・文物は焼失、来歴は不明■
法雲山妙覚寺は臨済宗妙心寺派の古い禅刹ですが、江戸時代の初期に起きた大火で寺の資料・文物がすっかり焼失してしまったため、寺の来歴や由緒を調べる手がかりはありません。
それから長い期間を経て、1726年(享保11年)に本堂が再建されたそうです。ということは、最も長くて1世紀間もこの寺院は荒廃したままだったということになるのでしょうか。
道脇に石仏群と経典奉納碑が並んでいる
脇の通用門に導く石段
そういえば、この地のお年寄りから聞いた話では、本町の家門の多くが地元の妙覚寺ではなく須原宿の定勝寺の檀家となっているということです。江戸時代初期に宿駅建設を担った本町の居住者に定勝寺の檀家が多いということは、野尻宿の発足当初は妙覚寺が火災ののち荒廃していた時期だったため、住民の多くが須定勝寺に帰依するしかなかったということを物語っているのかもしれません。
馬籠から妻籠、三留野を経て野尻まで木曾路の南部――旧小木曽庄――の中山道を辿りながら、臨済宗の禅刹を探索したところ、古代にすでにあった熊野信仰を含む原始的な山岳修験とか天台や真言の密教の拠点が荒廃したのち、これらの古い寺院や堂舎が臨済宗の禅僧たちによって禅宗寺院として復興再建されたものではないかという考えるようになりました。
平安末期、木曾地方での源氏勢力の台頭にともなう木曾谷各地での領主城館とその城下街の建設が、臨済宗学僧たちによる寺院復興と結びついて、両者の連携が生まれたのではないかと考えられます。苦難に満ちていたであろう開拓を精神的に支援したのだろうと。
それからおよそ3世紀後、室町後期から戦国時代に藤原系木曾氏が木曾で勢力を拡大したさいにも、木曾氏に臣従した領主たちによる城砦ならびに集落建設でも臨済宗の寺院が協力したものと見られます。野尻の妙覚寺は、そういう来歴を持つ寺院のひとつではないでしょうか。
徳川幕府による木曾路の中山道と宿駅の建設は、そのような戦国時代以来の集落群と連絡路の建設の動きを受けてのものです。ところが野尻では、17世紀前半に妙覚寺は火災で焼失したため、野尻宿の創成期には須原宿の定勝寺が住民の信仰と生活を支えていた時期があったようです。
本堂前から鐘楼門を振り返る
鐘楼門にに向かう主参道の石段。城砦のような構えに見える。
そういう事情があるせいか、野尻宿は木曽路では奈良井宿に次いで宿場としての規模が大きな街だったのですが、現存する寺院はわずかに妙覚寺がひとつだけです。妙覚寺自体が規模が大きな寺院であるうえに、須原の定勝寺が町住民のかなりの部分を檀家として引き受けてきたので、それで間に合ったのでしょう。
また、宿場街の南に須佐男神社があって、江戸時代には別当寺があったかずです。妙覚寺の寺領山林は広大だったので、神仏習合の風習のなかでこの神社も妙覚寺の領地のなかにあって、この寺の管理を受けていたものと見られます。ということで、神社に近接して妙覚寺塔頭支院の堂宇があったはずです。明治維新の廃仏毀釈は、木曾の中山道沿いではとりわけて激しかったので、仏堂の破却はことのほかひどかったと見られます。あるいは、妙覚寺とは別の寺院があったことも考えられます。
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