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長野県長野市大町~
穂保~津野~赤沼
長沼宿の目印


▲堤防上の大欅記念碑(右上)と待望上から眺める秋葉社(桝形跡)の塚: この2つは旧長沼宿南端の目印だ

■宿場南端の名物だった■

◆大欅記念碑脇の地蔵堂◆


▲堤防道路の先に稲荷社の杜と村山橋が見える

  村山橋の西岸の袂に一里塚跡と稲荷社がありますが、そこから土手沿いに800メートルほど北に歩くと、大欅記念碑と旧長沼宿に下る道があります。
  目の高さの幹回がり8メートルもあった大欅は1980年に新たな堤防構築のために伐採されたそうです。樹齢は500年を超えていたとか。大欅は、千曲川を小舟で渡るための渡し場の岸辺に立つ目印だったと言われています。その根方には石地蔵が立っていたそうです。
  長沼の渡し場は大正末期から昭和初期頃まで河川敷にあったのですが、その頃に最初の村山橋が建設されたため、なくなってしまいました。
  渡し場の目印となっていた大欅を記念して堤防上に記念碑が置かれ、地蔵堂を脇に建立したのだとか。
  江戸時代にはさらに3キロメートルほど南の布野に福島宿からの渡し場があったのです。布野の渡し場から村山村を経て長沼上町に連絡しました。
  さて、川上社は栗田町にも津野にもあります。その由来については、栗田町の川上社祠のところで述べることにします。


▲長野市大町(旧長沼宿上町)を流れる千曲川

◆秋葉社(桝形跡)◆

  現在の秋葉社は、直径10メートルほどで、高さが1メートルほどのうず高い塚の上に立っていて、塚には数本の松が植えられています。秋葉社は上が尖った自然石に小穴を穿った祠で、その右側に三峯社、天神社、養蚕神の小さな石祠が並んでいます。ここは、長沼宿上街の南端で、街道設備としての桝形がありました。
  祠の脇の立札には、秋葉社は北国脇街道の道標として、また休憩所として利用された、と説明があります。ということは、目立つランドマークで、木陰をつくるほどの樹林あるいは境内ががあったことになります。
  1846年(弘化3年)に長沼宿で火災が起きて26軒(正確には全戸43軒か)が焼失したため、その後、遠州秋葉山から火伏権現を勧請して秋葉社を建立したそうです。


▲自然石でつくった秋葉権現の祠

  ところが、秋葉社と桝形跡の当時の姿についての記録は見つかりません。桝形が具体的にどこに、どういう形で設けられていたのか、秋葉社の境内はもとはどこにあったのか、桝形と秋葉社とはどういう位置関係にあったのか、はさっぱりわかりません。
  明治以降、どこでも古い街道は、近代化のために大きく改造されました。長沼では、大正時代の終わりから昭和初期までは、道幅を拡幅くらいの変化しかなかったかもしれませんが、1950年代以降になると、自動車の通行のために目先の都合だけで道路を改造しました。この秋葉社と桝形跡は、その大きな影響があったと考えられます。


▲西側からの秋葉社の眺め


大欅を記念した石碑の隣には地蔵堂。向かって左端には川上社の石祠がある。

栗田町通り脇に立つ徳乗寺の門柱と境内庭園

通りに面して土壁の土蔵が並んでいる: 壁面は腰板で覆われている


秋葉社の塚: 左から石灯籠、秋葉社祠、三峯社祠、天神社祠、養蚕神祠

向かって左は堤防道路にのぼる道。右は国道18号へ向かう。

頂が尖った自然石が秋葉権現の祠が塚の中央にある

東側からの秋葉社の塚の様子

  私の勝手な想像ですが、江戸時代初期につくられた桝形は、高さは1.5メートルもあるかないかの鉤型の石垣が2つ、向き合っていたのではないでしょうか。
  桝形は解体除去されたのち、最終的に、千曲川堤防を築くために秋葉社も移転されることになって、ここに縮小した形で移設したのではないかと考えられます。【⇒江戸時代の長沼宿南端の石垣のイメイジ】

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