▲境内参道から山門を振り返る
医王山林光院は、もともとは玅笑寺の塔頭あるいは支院だったようですが、1606年(慶長年間)に分寺されたと伝えられています。それまでは、林光院は津野村の玅笑寺の境内にあったのではないでしょうか。
往時、玅笑寺は広大な境内や寺領を保有していて、境内にはいくつもの塔頭・支院を擁していたと見られます。ところが、長沼で開拓が進み、集落が成長するにつれて、玅笑寺の塔頭・支院が分寺され、境内の外に移設・自立していったようです。林光院もそのような寺院のひとつです。
さらに、明治維新で寺院や神社の所領や境内は解体縮小され、公有地や民有地に変わってしまいました。それにともなって、塔頭・支院の分立もおこなわれたようです。
林光院の分寺と移転は、おそらく長沼宿の建設と宿場街としての上町と栗田町の発展に照応したものと見られます。幕藩体制のもとで寺院には住民戸籍の管理の役割が与えられたので、宿場街の形成や成長による人口増大にともなって、寺院の数や規模の増大が求められたからです。
ところが、1742年(寛保年間)の大洪水によって宝物や文物がことごとく流失してしまったために、その後の歴史については不明なようです。
▲本堂内部の様子:立派な須弥壇と格天井
北国街道の開削・建設は1580年代に始まりました。1582年、織田軍によって追い詰められた勝頼が自刃して武田家が滅びたのち、上杉家が長沼を征圧し、北国街道松代道の土台となる軍道を整備して街道を建設し始めました。
1590年に豊臣秀吉は北信濃を上杉家に正式に授封して領地として認めました。しかし5年後、上杉家は会津に移封。さらにその3年後に秀吉は死去。その頃から徳川家の覇権掌握への挑戦が展開します。
1695年以降、長沼と松代を拠点とする北信濃は豊臣家の直轄領(蔵入地)でしたが、関ケ原の合戦ののちも、短い移行期間をおいてこの地はやはり徳川幕府の直轄領となります。
大坂の陣ののち1616年に佐久間家が長沼城主となり、長沼の集落と道路の土台となる構造は、江戸時代のはじめに長沼藩によって形づくられました。城下街とともに街道・宿場の大枠も藩政時代に定礎されました。そのことを如実に物語るのが、旧街道のところどころに鉤の手があることです。
林光院が玅笑寺から自立する17世紀初頭といえば、北国街道松代道と長沼宿が本格的に確立される頃合いです。城下街の軍事的防備の要となる鉤の手を押さえる位置に林光院が建立されたのです。
山門前に立って南を眺めると街道を桝形跡まで一望できます。往時、国道18号から東進する道路はなく、寺の西側には広大な田野が横たわっていました。
▲山門前から南方に街道上町通りを眺める
ところで、往時この辺りは寺町で、現在の駐車場にはかつて寺院がありました――浄土真宗の東照寺と思われます。東照寺はここから千曲川対岸の相之島に移り、その後、水害にあったため、さらに須坂市米子(現在地)に移設されました。
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