■城下街内の門前街■
長沼城は1687年頃まで存続しました(佐久間藩が改易となるにおよんで破却)。六地蔵町はその大半が外堀の外側に位置していたようです。長沼城の北側は切れ間のない外堀で分厚く防備され、城は北に向かって防備を堅くしながら、南に向かっては開かれた構造になっていたようです。商業の中心地、長沼宿があるためでしょう。
とはいえ、城の三ノ丸南端には当初、初代藩主勝之の長男、勝年の居館と領地が置かれていました。居館は土塁と小ぶりの堀で囲まれていました。これと外堀南西端に張り出した外堀によって、南からの城郭への侵入を防ぐ仕組みになっていたようです【⇒参考資料】。
勝年は長男でしたが、病弱だったようで藩主の地位を継がずに早世しました。没後、その居館の跡地に――それまで現豊野の石村にあった――粟野神社の別当寺神宮寺を移し、寺号を貞心寺と改めて勝年の菩提を弔う寺としたそうです。
勝年の嫡子、勝盛は長沼の知行所5000石を相続し江戸幕府の旗本となりました。居館跡には、貞心寺と並んで地行所を統治する陣屋が置かれました。
してみると、六地蔵町は、城下街でありながらも他方で旗本領陣屋の統治を受ける農村集落で、しかも貞心寺の門前街でもあるという複合的な立場の集落だったわけです。
■天領(幕府直轄領)の街■
しかしながら、長沼城は70年間ほどで消滅し、長沼は天領(幕府直轄領)となり、まずは飯山藩佐久間家の預所となり、次に越後高田藩に預けられ、幕末に松代藩が管理するという変遷を経ました。いずれの藩も藩領境界を接する藩です。
この「別の藩による預り」というものはどういうものだったのでしょうか。治安や訴訟沙汰を日常的に担うのは各藩で、年貢米は幕府に代行して徴収して幕府に上納するという形だったのではないかと考えられます。
そうだとすると、農民たちの年貢率は高くなく、しかも天領で統制や規制がそれほど厳しくないという恵まれた条件のもとにあったのでしょうか。往時の寺院の多さとか文化状態からして、そうだったと思われます。
■貞心寺から鉤の手、街道あるきへ■
以上のような歴史的背景を念頭に置きながら、貞心寺の南側の「おんま通り」を進み、鉤の手まで戻り、そのあと街道沿いに歩くことにしましょう。
「おんま通り」とは「御馬通り」ということなのでしょうか。この場合に考えられるのは、騎乗した殿様のお成道という意味で、藩主が参覲の粋帰りとかお忍びの外出のさいに城に出入りする道ということなのか、それとも藩士たちが騎乗の稽古――馬場でおこなう――のために往来する道という意味なのか、のどちらかです。どちらの可能性もありそうです。
とはいえ、長沼の藩と城は17世紀の終わり近くに消滅したので、どちらも違うかもしれません。むしろ、その後の街道交通で馬市への往来で使われたのかもしれません。長沼は交易と交通の要衝だったので、ここで馬市が催された可能性は高かったと思えます。
「おんま通り」の貞心寺から栗田町・六地蔵町とのあいだの鉤の手までのあいだには、家屋が密集しています。かつては門前街として栄えたのかもしれません。密集しているとはいえ、敷地は相当に広く、家屋も広壮で重厚な造りです。そして、どの住戸にも手をかけた和風庭園が整えられています。
▲敷地の最奥部の作業場を兼ねた土蔵
さらに道側または敷地の最奥側に土蔵や土壁の農作業屋が並んでいます。おそらくは昭和中期(1970年代)にそういう建築様式や作庭が長沼で「はやり」となったのでしょう。何やら標準化された「屋敷の様式」のように、自然発生的に統一された家並みコンセプトがあったかのようです。
そのような家屋や庭園のまとまった傾向性は、集落に品格と美しさをもたらしているような気がします。水害でそういう風情の多くは流失してしまいました。洪水の前には、ここにどれほどみごとな街並みがあったかのかという感慨がわいてきます。
▲鉤の手の家並み風景
さて、栗田町との境の鉤の手にもどりました。辻を北に曲がって街道の六地蔵町通りを進みましょう。
千曲川から氾濫した膨大な水が、かつてここにあった風景の構成要素――古民家や塀、リンゴの樹木など――を押し流し破壊してしまったことが見えてきます。かつては家々のあいだにあったはずの果樹園や野菜畑が消えて、荒蕪地となっています。
家屋の壁には路面からの高さが2メートルあまりの位置に洪水の跡が残っています。そんな壁の前の陽だまりに老婆が2人並んで日光浴をしながら楽しそうに会話していました。そのうちのひとりは、まだ災害後の片づけや修復が終わらず、今でも市街のアパートに避難生活している、と語ってくれました。
昼間は自宅に戻って片付けをしているようです。穏やかな風景ですが、住民たちは悲惨な水害を経験したのです。
土層や作業屋が並ぶ景観▲
独創的な造りの門▲
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