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古代からの古い神社


▲長沼神社の本殿(右)と拝殿(北側からの眺め)。本殿脇の巨大な切り株は、武田信玄が植えたと伝えられるケヤキかもしれない。

■平安時代に創建された■


▲境内参道から鳥居を振り返る

  長沼神社は、太田庄として長沼の開拓が始まった頃(平安時代)からあったと伝えられる古い神社です。古くは諏訪大明神と呼ばれていたといいます。
  そうすると、創建時の境内は現在地ではなかった可能性が高くなります。というのも、長沼宿上町は、戦国後期に農耕地や村落の本格的な開拓が始まったとされる栗田町の新開地だったからです。創建時から鎌倉時代には、ここはまったく未開の原野だったはずです。
  しかしながら、千曲川の流れの勾配から見ると、この辺りは赤沼村や津野村の辺りよりもわずかに標高が高いので、人里離れても、水害の危険性が低かったであろう現在地近くに境内があったという見方もできます。
  長沼神社のご神体は寿石という不思議な石で、隕石ではないかと見られているそうです。隕石だとすると、その石は燃え残った隕鉄ということで磁性を帯びているので、不思議な力や神秘性が尊ばれたのでしょうか。
  ところで、山並みや峠に囲まれた北信濃では、室町後期から、支配地が小さな地頭領主たちが分立割拠して勢力争いを繰り返していたようです。そのため、1546年(天文年間)に諏訪大明神は、兵火を避けるために上州沼田に移設されたそうです。
  それから12年後、北信濃は武田家の支配下に治まり戦乱のおそれがなくなったため、諏訪大明神は長沼に戻されました。その地が現在地のようです。おりしもそのとき、武田信玄は長沼城(と城下集落)を建設していたので、この神社の社殿造営にあたったそうです。あるいは、神社の長沼への帰還は、信玄の招きに応えたのかもしれません。


▲拝殿の内部の様子

  社伝では、信玄は木像、笛、薙鎌などを奉納し、自らケヤキを植えたそうです。社殿脇の巨大な切り株がそれなのでしょうか。
  その後、1645年には火災、49年には天災に見舞われて社殿が失われましたが、藩主佐久間家の支援を受けて再建されました。やがて北国街道松代道と長沼宿の発展とともに神社も隆盛し、宿場街守り神となります。そして、1818年には社号を諏訪大明神から長沼神社に変更しました。江戸時代には、神社の境内神域は今よりもずっと広かったでしょう。
  江戸時代の長沼神社については、境内や社領の広さを含めてわからないことがたくさんあります。江戸時代には、神社には神社を管理する別当寺があったはずですが、長沼神社についてはその点は不明です。林光院や西厳寺が管理していたのでしょうか。


▲裏手からの長沼神社本殿の姿

◆北野天神など◆

  さて、社殿の背後には、学問の神様、天満宮があって、受験や学業の祈願や成就御礼の絵馬がたくさん奉納されています。 
 明治維新までは、各地の神社や寺院は相当の領地(農耕地と集落)を保有し、その経営からの収入で社殿や堂宇の修築などの費用を自前でまかなっていました。ところが、明治維新でそれら保有の領地は没収され、公有地や民有地とされてしまいました。あるいは土地の経済的活用のために、とくに明治39(1906)年の神社合祀令によって小規模な神社や祠は有力な神社の境内に統合、合祀されました。
  長沼神社の境内には北野天満宮や稲荷社、そのほかの祠群が集められていますが、その背景には、上記の歴史があるものと考えられます。日本には自然信仰にもとづく汎神論があって「八百万の神」を尊ぶので、ひとつの神社の境内に多数の神々が集められることに反感や拒否はなかったようです。
  境内神域が狭められた分、民家と神社とが融合して、親しみやすい独特の街並み風景を形成しています。


旧街道の西側に立つ長沼神社の大鳥居

拝殿に続く石畳の参道と燈籠の列

冬の陽を浴びながら参道をのんびり歩く

力強さと繊細さをあわせもつ拝殿の結構

南側から本殿を見上げる

境内南端からの拝殿の眺め

本殿裏手に並ぶ石祠群

境内脇には昭和レトロな古民家が並んでいる


境内北西端にある天満宮の社殿

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