■赤沼公園に向かう小径■
二股の右の小路に入ってまもなくの家並み▲
赤沼集落南端の二股で右に進路を取ると、すぐに家並みが見えてきます。広壮で重厚な和風家屋や土蔵が並んでいます。土蔵は壁の白漆喰が剥落してます。これは水害の影響でしょうか。
この道は、集落の居住区域と果樹園区域との境界線上を往く道です。その境界の緩衝地となっているのが赤沼公園です。赤沼はその昔、もっと小さな――20~30戸前後の――いくつかの小村に分かれていたのですが、明治以降に合併してひとつの村になりました。それらの境界には田畑が割り込んでいて、やがて田畑はリンゴ園となりました。
公園内 北西寄りのステージ▲
ところで、赤沼公園は、水害直後から1年あまりのあいだ、瓦礫や土砂の集積場となっていました。とりあえずの復旧が進むと瓦礫などは撤去され、その後、地表面が傷んだ公園そのものの復元工事が始まっています。
公園の北東端で北に向かう道が古い村道で、伊勢社前を通ります。古い記録を見ると、この辺りは古くは大割村と呼ばれていたようです。
■妙願寺前の分岐右側の小径■
分岐は妙願寺の参道の入り口▲
茅葺造りの屋根がことのほか美しい▲
さて、赤沼公園から妙願寺前まで戻り、北東に向かう小径を歩きましょう。この通りは道の東側に家並みが続き、西側にはリンゴ園を挟んで赤沼公会堂があります。
公会堂の玄関前には「信州りんご発祥の地」という記念碑があります。明治時代にリンゴ栽培が始まった赤沼は、信州でのリンゴ栽培のパイオニアだったそうです。
そういえば、赤沼では住戸のうち、リンゴの栽培や収穫にかかわる農作業小屋兼倉庫が敷地に設けられている農家が大半です。リンゴ栽培は、収益に加えて、農民たちに都会の市場へのアクセスの情報や知識をもたらし、この地域の独自の文化や集落景観をもたらしているようです。
ここで進路を東に取りましょう。古くは大割地籍と呼ばれていた区域を歩くことにします。ここが、赤沼の一番東にある集落です。
■公園から伊勢社のあいだの集落■
ここは、赤沼公園から伊勢社のあいだにある区域で、赤沼でも一番昭和前期までの家並み風景をとどめているところです。
しかし、破堤の後、長沼を襲った千曲川の濁流は標高が低い赤沼におよび長く滞留したため、多くの古民家や土塀が破壊されました。果樹園などの農耕地も大きな痛手を受けました。
それでも、ほとんどのリンゴの樹は耐えて広大な果樹園は昨秋も豊かな実りをもたらしました。水害に強い果樹としてリンゴを選んで栽培してきたこの地の農民の知恵のおかげです。
今残っている和風住宅や古民家は、広大な果樹園に取り巻かれて、ことのほか美しく見えます。
何やらゆかしい土塀脇の小径▲
土壁のままの土蔵の背後に一本杉▲
大割の集落の様子: 背後の樹林は伊勢社の杜▲
■大田神社かいわいの集落■
さて、大割の東端まで来たので、伊勢社の前から大田神社方面に戻ることにしました。神社の周りはその昔は宮配と呼ばれたそうです。配とは、領主から割り当てられた神社の保有地を意味するのでしょうか。
ここは神社近くという場所柄から古民家が多かったのでしょうか。洪水で甚大な被害を受けた家屋が公費解体され撤去された跡が更地となっているのが目につきます。そこに、土台を嵩上げした土蔵と庭園(庭石や松など)が端然と残されています。
この地の人びとは、江戸後期から土蔵の土台を嵩上げして石垣で補強する風習を築いてきました。食糧や貴重品を土蔵に保存して守ったのです。その知恵は、先年の水害での効を発揮しました。が、古民家の多くが失われたのは、返す返すも残念です。
家屋が解体撤去され更地ばかりが目立つ▲
土蔵の白壁が朝陽を受けてまぶしい▲
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