■江戸前期の赤沼村の中心部■
家並みと果樹園が隣り合っている▲
赤沼集落南端の二股分岐から700メートル北に進んだところに西向きの小路の入り口があります。右手には妙願寺が見えます。ここを左折して西に向かいます。西小路と呼ばれています。
すると100メートルほどで、赤い金属板屋根の小さなお堂があります。これが延命地蔵堂で、近くには土蔵と赤沼上組の集会所があります。この一帯が、赤沼分家の居館だったそうです。ここが赤沼村の統治の中心地だったのです。
■悲運の佐久間家一門■
1642年(寛永19年)、第三代長沼城主、佐久間安房守勝豊の弟、勝興は、城主家から赤沼の3000石を分封されて赤沼分家を興しました。やがて幕府の旗本に取り立てられて、赤沼領が知行地となりました。
ところが40年後(1682年)、第二代の勝重は、祖父(勝興の父)が罪科で流刑となったことに連座して所領(赤沼)を没収され、家門断絶となったといいます。その20年後、長沼藩主家が改易され廃藩となります。その頃、幕閣では苛烈な権力闘争が展開されたので、佐久間家の断絶はその余波かもしれません。
幕閣では権力闘争の勝者によって、すでに死去した大久保長安の罪科がことさら糾弾されたようです。長安は佐渡金山の開発・経営を宰領していて、佐渡の金は北国街道松代道を通って江戸に運ばれたので、そのことも関連しているかもしれません。長沼藩主とその一門の悲運については、長沼城跡とその歴史を探訪する記事で詳しく述べることにします。
■赤沼分家館跡かいわい■
その後、18世紀はじめ、赤沼分家館跡には阿弥陀堂が築かれ、さらにやがて浄土宗鎮西派の花林山蓮生寺が建立されました。しかし、明治以降に後継者が絶えたところに長沼地震で堂宇が大破し、まもなく解体されたようです。現在は延命地蔵堂と土蔵が残っています。
そして、今でも集会所の南側には一群の墓石や石塔が残されています。
居館跡の脇を通る小径の地蔵堂▲
蓮生寺あとに残る墓標群▲
居館跡であもあり蓮生寺跡でもある草原と墓石群は、時代の変遷と世のの無常さを象徴しているかのようです。居館跡には建物がいくつもあったに違いありませんが、今では果樹園や菜園となっているところも多いのかもしれません。
それにしても、上組地区は赤沼村の行政の中心地だったことから、周囲が農地に囲まれている割には、敷地割りがかなり細かくなっています。家屋が比較的に密集していたものと見られます。
もっとも、北国街道松代道沿いの敷地割りは、総じて間口の幅が狭くなっているのですが。
■近隣の家並みを探索する■
さて、延命地蔵堂から南側の家並みを探索してみます。
和風の住宅は、外観から見ると昭和期の建築のようですが、赤沼の伝統を受け継いでいます。まず結構では、妻面の梁や横木の数の多さです。そして、屋根を支える垂木の密な配置です。重い瓦屋根をしっかりと支えるためでしょうか。
家並みはリンゴ園などの農耕地に囲まれている▲
土蔵の白壁はすでに美しく修復されている▲
軒に鼻を見せる密な垂木▲
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