火の見櫓の脇で鉤の手を北に曲がり、旧松代道栗田町通りを300メートルほど進んだ東脇に木製の小さな鳥居があります。どういう神社があるのかと参道を歩いてみると、杉木立の根元に川上社を含む4つの祠が集まっています。
そこは小さな広場になっていて、北隣には栗田町集会所があります。広場の西端には、梵字の石塔と六地蔵が並んでいます。どうやら、その昔、寺院か神社か宗教施設があったと思われます。神聖な場所として大事にされてきたようです。
古い史料によると、かつて長沼にあった寺院で所在地が不明のもののうち、西厳寺の近くにあったらしい霊山寺、宝珠院のいずれかではないかと私は想像しています。あるいは江戸時代には、この辺りまで西厳寺の境内または寺領だったのかもしれません。そして、鳥居から始まる参道は、昔、栗田町の東側にあったと伝えられる三河町に向かう小路だったのかもあしれません。
さて記録によると、江戸時代の弘化4年(1847年)の善光寺大地震のあとの大洪水で長沼は壊滅的な打撃を受けました。このとき中之条の代官、川上金吾助が大きな援助を提供してくれました。長沼住民は大変に感謝し、川上代官を神として社殿に祀ることにしたのだとか。
という文脈で考えてみると、栗田町の小さな社殿(祠)がそれではないかと見られます。
大町堤防上の石祠は、区画整理のさいに上町の川上社を大欅記念碑脇に移設したのではないかと考えられます。現在の堤防が構築されるときに埋まってしまう場所にあったということではないでしょうか。
私は、津野八幡社で川上社の小さな石祠を見つけました。してみると、内町(外堀内町)にも赤沼村にもあって、集落ごとに祀ったものと考えても間違いではないでしょう。そのくらい代官の援助はありがたかったということなのでしょう。
ところで、この中之条とは、坂城町の中之条ではないでしょうか。中之条も長沼もともに幕府の直轄地=天領です。長沼は天領ですが、水害当時には高田藩預所となっていました。つまり、川上代官は、天領の行政官仲間として長沼に支援の手を差し伸べたものと見られます。
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▲川上社の左奥にも石祠がある(名称不明)
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祠脇の標柱には「川上社」と記されている
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2つの小さな石祠は、標柱によると「養蚕社」(かいこがみ)
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集会所の南、広がの西端に並ぶ六地蔵と梵字の石碑
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祠前の広場から旧街道を振り返る
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ここは西厳寺の裏手にあたる。古くは、ここいらも西厳寺の境内寺領だったか。 |