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▲旧津野村の川上社の祠
神社をめぐる伝説では、創建間もなく「まとば」と呼ばれる現在地に遷移されたそうです。八幡神とは誉田別命(ほんだわけのみこと:諡号は応神天皇)の神霊だとされていて、弓矢・武芸の神様です。そのため、八幡宮の境内や社領では武術の訓練場あるいは流鏑馬武芸を神前に奉納する儀式の場となっていました。
したがって、神社の所在地や支配地が「的場」や「矢場」という名称を得たとしても何ら不思議はありません。兵馬調練場に八幡神を分祀した社があって、やがてそこに本格的な神宮が勧請されることもあるでしょう。
この「まとば」や「やば」という場所は、長沼太郎や島津氏が領主であった時代――13~16世紀――に軍事・武術の調練場として利用されていたといわれています。八幡神に戦勝や武芸熟達を祈念しながら、武家たちは兵馬弓矢の訓練に励んでいたのでしょう。
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▲社殿の西脇に生き残った2本の大ケヤキ
1555年に長沼を征服した武田信玄もまた武家の神であるこの八幡宮を尊崇し、永禄年間には矢場八幡大神という社号を冠して宝物神器を奉納しました。ところが、その宝物神器は1740年代(寛保年間)の大洪水で流失してしまったとか。
その頃には、松代藩による千曲川支流群の粒度変更の大工事が完了して、水系が組み換えられて、広大な面積の新田開発が進んだけれども、他方でむしろ以前よりも長沼は氾濫水害の頻度も規模も大きくなってしまったのです。
時代を戻して佐久間家が長沼藩主として入封してからは、城郭内に馬場や矢場を設けた――西三日月堀の南北ではないか――ので、八幡神社境内での兵馬の調練はおこなわれなくなったと見られています。
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▲境内の様子は濁流の破壊力を想起させる
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拝殿まで続く参道: 高木は氾濫濁流に堪えて生き残ったらしい
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境内の表土は復旧されて間近いという印象だ
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参道中ほどで大鳥居と手水舎を振り返る
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拝殿: 背後の樹林は大半が失われたようだ
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境内社の小さな石祠: ほかの祠は流されて失われたのだろうか
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拝殿とその背後の本殿: 土台からすっかり再建立された
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