■東照寺■
東照寺は、現在、林光院の駐車場となっている辺りにあったそうです。浄土真宗の寺院であって、しかも西厳寺の隣にあったということから、西厳寺の支院・塔頭だったのかもしれません。
ところが、やがて千曲川の対岸にある相ノ島に移転したものの水害にあったため、さらに須坂市米子に遷移しました。東照寺は現在もそこにあります。
しかし、いつ頃に創建されて、いつ頃に移転したのかについては不明です。かつてそういう寺があったという言い伝えが残っているだけです。
■蓮正寺■
かつて赤沼の西小路の奥に長沼山蓮正寺という浄土真宗の寺院があったという記録が残っています。もともとこの寺は須坂の(臥竜山の北東にある)普願寺の末寺でしたが、1540~70年代に長沼に移って教心という僧による開基で再建されたと見られています。
その時期には、武田家の北信濃侵攻があって、戦乱兵火が続いて長沼では多くの寺が焼失したとか。また蓮正寺は、織田信長に敵対する石山本願寺をかなり積極的に支援したようなので、武田家滅亡後に織田家の直轄地となった長沼にはいられなくなったのかもしれません。まもなく蓮正寺は越後寺泊に移転し、さらに与板町に移転し、そのまま現在にいたっているようです。
しかし、いつ頃に創建されて、いつ頃に移転したのかについては不明です。かつてそういう寺があったという言い伝えが残っているだけです。
■津野十王堂■
津野公会堂のある場所に明治末まであった、十王像を祀る尼寺だそうです。玅笑寺に付属する支院で、白沢家が開創し、家門の女性が尼僧となっていたようです。
小川村にあった十王像を長沼津野に運んで小堂に安置して本尊としたのだとか。
■法珠院■
西界山法珠院という寺院があったという記録があるようですが、宗旨や寺の歴史はまったく不明です。長沼藩廃絶の後にこの寺院の跡地に霊山寺が移転してきたということなので、西厳時の北側にあったものと見られます。
■霊山寺■
もともとは信濃町大井に真言宗の霊仙寺があったそうです。修験霊場で、鎌倉時代には七堂伽藍を備えた大寺院で、支院・末寺が30房もあったといいます。
上杉家の庇護を受けていたようですが、戦火のため堂宇は焼失し、その後再建され、佐久間藩消滅後に長沼の法珠院跡に移転し、霊山寺と寺号を改めたようです。ところが、1741~43年(寛保年間)にかけて2度の大水害で流失して寺は失われたそうです。 【⇒関連記事】
■赤沼十王堂■
その昔、赤沼の「一ノ配」という場所に十王堂があったそうです。阿弥陀如来像がと十王像が置かれていましたが、阿弥陀如来像は芝増上寺内の清光寺を開基した高僧、潮瑞が寄進したものだとか。
時期は不明ですが、十王堂が廃されるときに阿弥陀如来像は観海寺に移され、十王像は蓮生寺に安置されることになったそうです。蓮生寺の十王像が今はどこにあるかは不明です。
■山王権現と白山神社■
長沼には山王権現がひとつと白山社がふたつあったそうですが、洪水によって跡地の遺構が失われてしまいました。山王権現は、長沼城三ノ丸跡の守田神社の境内にあったものと思われます。
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■長仙寺■
1276年、親鸞の弟子で貞信という僧が現飯綱町の赤塩に長仙寺を開基建立しましたが、1368年に長沼に移ってきたと伝えられています。その後250年以上も続いたのですが、1619年に隣村の布野に移り、さらに1698年、現長野市の南堀に移転したそうです。そのまま今に続いています。
長沼のどこにあったかは不明です。ただし、長沼住民自治協議会、長沼歴史研究会が発行した『歴史薫るまち長沼 史跡巡りマップ』によると、赤沼の大田神社と街道を挟んで斜向かいにあったと示してあります。すると、下記の智足院と境内を並べていたかもしれません。
私が探索したさいの印象では、大田神社社務所から赤沼中央公園辺りまでは、わずかに石仏や石塔が残されていて、寺町としていくつか寺院が集まっていたのではないかと推察しました。
■浄興寺■
1217年、親鸞は常陸の国笠間郡稲田に一宇を立てて稲田禅坊と称しましたが、やがて浄土真宗を開くと、浄土真宗興行寺を略して浄興寺という寺号に改めたのだとか。ところが、戦火にあって堂宇は焼失し、葛飾郡に移ったそうです。
1267年(文永年間)に土地の寄進を受けて長沼津野村、正覚寺の前に遷移しました。しかし1561年(永禄年間)、武田家の北信侵攻と合戦によって兵火を浴び、寺院は灰燼に帰してしまいました。5年後、上杉謙信の招きによって春日山城下に寺領を与えられ、移転しました。
その後、寺は直江津に移り、さらに高田城下に移転し、現在もそこにあるといいます。
■経善寺■
開創の年代は不明ですが、真言宗古義派の寺院で、長沼城跡から松代道に往く小径とおんま通りとの交点の西寄りにあったそうです。
1968年に廃寺になり、住持の家族は真言宗の伝統にある医療に関する深い知識を活かして医者になったとか。となったとか。長沼では廃仏毀釈運動はなかったようですが、住持の一家は明治政府の意向に遠慮したのかもしれません。
■智足院■
大田神社の西70mにある石塔・石仏は智足院跡か▲
赤沼の大田神社の西方に智足院という曹洞宗の尼寺があったそうです。浅慶院の修行僧、宣法が開基したと伝えられています。
後継者がなく、1873年に廃されたとか。
■千手院■
大町の大欅記念碑の東――昔、ケヤキの大木があって渡し場の目印だった――に晴信山千手院というお堂があったそうです。山号が示すように、武田信玄が建立した寺で、十一面千手観音像を本尊としていたそうです。
後継者がなく、1873年に廃されたとか。
■赤沼十王堂■
その昔、赤沼の「一ノ配」という場所に十王堂があったそうです。阿弥陀如来像がと十王像が置かれていましたが、阿弥陀如来像は芝増上寺内の清光寺を開基した高僧、潮瑞が寄進したものだとか。
時期は不明ですが、十王堂が廃されるときに阿弥陀如来像は観海寺に移され、十王像は蓮生寺に安置されることになったそうです。
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