▲小径を左に曲がると栗田町通りへ
▲鉤の手には西厳寺の門柱が立つ
▲懐かしさを誘う土蔵
◆栗田町の南端は寺町◆
鉤の手を北に曲がると栗田町通りに出ます。北に曲がらずに土手下まで進むと、小路の両側に寺が並んでいます。この小路は、堤防道路まで続いていて、堤防と栗田町通りを結んでいます。
さて、栗田町通りは非常に緩やかに湾曲しながら北に続いています。500メートルほど先で、ふたたびクランク型の鍵の手に出会うことになります。
上町通りと栗田町通りをつなぐ鉤の手の辻の周囲には、林光院、西厳寺、西光寺、証各寺、勝念寺、徳乗寺と6つの寺院が集まっています(これらの寺院については別途探訪記事を参照)。鉤の手は、城下街にあっては、軍事的防衛構想で非常に重要な位置づけを与えられています。
この辻は2回直角に曲がらないと街道を進むことができないので、事実上、桝形となっています。つまり、敵兵の進軍がここで停滞するので、寺院の境内に伏兵を配備すれば、敵兵に甚大な打撃を与えることができるという見立てがあるわけです。
▲修築された広壮な和風住宅
栗田町通り沿いの家並みのあいだにはリンゴ園などの畑作地があって、家並みは果樹園に取り巻かれていたのですが、洪水で破壊されてしまい、かつての果樹園の多くが今は荒蕪地となっています。それでも、街道脇に続く家並みは、広壮で重厚な造りの和風建築や土蔵からなっていて、何やら郷愁を誘います。庭園もみごとな造りですから、洪水前には豊かで美しい景観があったのです。
街道を北に歩いていくと、やがて通り東側に木製の小ぶりな鳥居を見つけました。鳥居の貫の中央には額板があるのですが、社号は消えています。参道になっている小路の奥には川上社の小さな社殿と石祠群が祀られています。
鳥居の奥(東)に入っていってみると、堤防まで広大なリンゴ園が広がっています。その南側には西厳寺の本堂の大きな屋根が見えます。
さて、街道(栗田町通り)に戻ってさらに北に進むことにします。
▲街道の西脇に並ぶ善導寺の門柱
栗田町の北端の鍵の手まであと100メートルほどの街道西脇に善導寺があります。この位置に大きな寺院が置かれているのは、やはり長沼城の防衛構想によるものでしょうか。
鎌倉時代の創建で当初は浄林寺という寺号だそうです。佐久間藩の長沼城があった時代に赤沼からここに寺が戻ってきたのですが、当然、城主の許可を得たはずですから、城の防衛構想に合わせての立地となったのでしょう。
昭和の高度成長の時代には、栗田町通りの北側は商店街だったと思われます。そんな面影がわずかに残されています。集落の外れの国道沿いに大型店舗が続々出店する平成時代には、経営者の高齢化もあって地元の商店が姿を消していったものと見られます。
善道寺の北側は門前街をなしていたのでしょうか。住宅が比較的に密集しています。
▲昭和期の面影を残す家並み
▲長屋門の出梁の結構がみごとだ
この辺りには街道沿いに昭和期の土蔵造りの建物がいくつも残っています。もっと多くあったのかもしれませんが、何しろ古民家なので、いくつも洪水で壊れてしまったようです。古い土蔵はただでさえ維持や修復に手間と費用がかかるので、水害直後の「公費解体」で撤去されたものも多かったようです。
水害後に解体するのは仕方がないのですが、文化財級の古民家もあったはずで、今後は、せめて分解した古木材を史料として残していくべきだと願っています。
さて、古民家を探すうちに、鉤の手に着きました。
▲クルマ時代に合わせて角が丸くなった鉤の手
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