▲冬の陽を浴びる石塔と石仏
▲庭石は乱れ、句札は倒れている
創建の年代はわかりませんが、言い伝えでは、旧長沼城下武家屋敷街にいた吉村家と名取家が勧請して玅笑寺の末寺として禅庵を結んだということです。時代が江戸後期以降なら、廃藩後すでに両家は帰農した家系ですから、かなり裕福な農家だったわけです。
玅笑寺の末寺なので、曹洞宗で、長沼ではただひとすの尼寺だそうです。歴代の庵主さんは、尼僧だったということです。
先頃、洪水の被害を受けたお堂は、造りから見ると昭和末期から平成初期に改築されたように見えます。それ以前は、おそらく茅葺の観音堂のような庵があったのではないかと想像しています。
この禅庵の仏像はどれもみな独特の意匠というか形状をしています。
まず蓋舎のなかに並んだ六つの石仏ですが、それぞれに別の仕草をしています。合掌する像、子どもを膝上に抱く、数珠らしい綱を回し手繰る像など、6つの石仏がどれも異なる姿勢なのです。菩薩像ではあっても、地蔵なのでしょうか、観音なのでしょうか。
境内の街道脇北端には、六観音像と庚申塔が並んでいます。観音像のうち4つは、洪水で台座から落とされ倒されたまま、今も横倒しになっています。そして、庚申塔は、台座の上に積み上げてあるとても希少な造りです。
禅庵の本尊は観音菩薩なのでしょうか。この庵の来歴や由緒をぜひ知りたいものです。
▲台座に積み上げた庚申塔(希少な造り)
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水害で傷んだ壁や扉口はシートで養生されている
小ぶりだが端正な造りの禅庵本堂
境内南端の六仏像舎: 六仏像はどうやら通常の地蔵像ではないようだ
荒れたままの境内にはイチョウとヤマザクラがある
名物の六観音像の4つは倒れたまになっている |