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▲「おんま通り」の貞心寺参道入り口の門柱脇から本堂を眺める

  大龍山貞心寺の境内は、長沼藩があった頃、長沼城の南端の郭にあって、幕府の旗本、佐久間因幡守の屋敷と長沼領統治のための陣屋があった場所です。因幡守家は、初代長沼藩主(勝之)の長男(勝年)の継嗣、勝盛が藩主家から5千石を分け与えられて起こされた家門です。
  しかしながら、1646年に因幡守家は継嗣がなく断絶してしまいました。その跡地に、豊野の北石村にあった寺院が移ってきて、大龍山貞心寺と寺号を改めて再建されたのです。


▲守田神社の南からの長沼城跡と貞心寺を眺める

■長沼藩主分家屋敷跡にある寺院■

  曹洞宗の貞心寺は1630年(寛永年間)に長沼城下の六地蔵町に移ってきたそうです。前身は、現長野市豊野町石にある粟野神社の別当寺だった真言宗の神宮寺でしたが、17世紀の前葉にすっかり衰微して無住になっていたので、長沼に移され、玅笑寺の僧が新たに開山をおこなって再興したそうです。このとき曹洞宗に改めました。
  そのさいに、どうやら――中興開山なので――山号を大龍院に改めたらしいのですが、寺号も改めたどうかは不明です。
  おりしもその年、長沼藩主、佐久間勝之の長男でしたが病弱で二代藩主を継がずに因幡守となった勝年が死去し、この寺が勝年の菩提を弔う寺となりました。
  寺院の移転と因幡守の死去・葬儀との前後関係は不明ですが、私の推量では、その菩提を弔うために、荒廃していた寺院を長沼に移して改宗し、中興開山としたのではないでしょうか。
  やがて1665年(寛文年間)に藩主の妹が死去し、法名を清泰貞心大姉としたことから、寺号を貞心寺と改めたと伝えられています。


▲本堂前のアカマツが印象的だ

  ところで、この寺が佐久間因幡守勝年の菩提を弔う寺として移転再興したものと見る理由は、現在の貞心寺の境内は、もともと印旛守の屋敷で長沼城の最南端の郭で堀と土塁に囲まれていたようです【⇒長沼城縄張り復元図参照】
  勝年が没した後、その継嗣である勝盛が因幡守の地位を受け継ぎ、幕府の旗本家になりました。したがって、第二代因幡守は江戸に居住するので長沼屋敷はこの地の領地を管理する陣屋だけとなって、屋敷内にできた空き地に旧神宮寺を移すことができたという経緯になるはずです。
  ところが、因幡守勝盛には継嗣がなく、1646年に絶家となってしまいます。とすると、その旗本としての知行地(領地)はそのまま幕府直轄地(天領)に接収されます。しかも、1688年には第四代長沼藩主、佐久間勝親が職務怠慢を理由に改易され廃藩となってしまいました。
  水内郡の長沼藩領はこれまた幕府天領に接収となり、廃された長沼城の藩庁陣屋はそのまま天領統治のための陣屋となります。すると、旧因幡守屋敷の陣屋も不要になり、そのほぼ全域が貞心寺の境内となったというわけです。


▲参道脇に侍すように並ぶ石仏群

  ところで、境内参道脇や墓苑には古い石仏や石塔が非常に多く集められ保存されています。長沼では、寺院がよそに移転したり廃寺になったりするときに、残すべき仏像や文物を後継寺に引き渡してきたようです。そのため、石仏群が散逸しないで、貞心寺の境内や墓苑にも集まったということなでしょう。


堤防上から貞心寺境内と六地蔵町を眺める

貞心寺の本堂: 大正時代に焼失した後に再建されたのもの

本堂前から参道と墓苑を眺める: 彼方に飯縄山の頂が見える

境内・墓苑には多くの石塔や石仏が集められている

丁寧な造りの石仏群が参道脇に並んでいる

主だった石仏には蓋屋が被せられている

並木と石仏群に見守られた石畳の参道

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