▲鉤の手脇の民家: 半年後に解体撤去された
◆旧街外れの道標◆
今回は、長沼支所から北に歩くことにします。
津野も一昨年の洪水で住民は手ひどい被害を受けました。旧街道沿いには、水害で痛手を受けた住宅を修復・修築している風景が続きます。
30メートルも歩くか歩かないうちに、鉤の手辻にいたりました。古びた赤い郵便ポストの脇、T字路に高さ2メートルあまりの石柱道標が立ってます。てっぺんには石の祠が載せてあります。
石柱の正面(南側)には「右 ゑちご /左 さくば」と刻んであります。鉤の手を右に曲がってからさらに北に曲がって進むと、松代道は北国街道本道に合流するので、越後に向かう道だということです。「さくば」とは何でしょうか。一般には「作場」つまり耕作地だそうです。
石柱の東脇面には「左 せんくハうじ(せんかうじ)」と刻まれていて、これは鉤の手を曲がらず西に直進すれば善光寺にいたるということでしょう。その道は若槻に向かう道で、西方の丘陵で北国街道本道(善光寺道)に合流します。
この石の標柱の西脇面には「嘉永辛亥」(1951年)という設立年が記されています。幕末の建立のようです。この、玅笑寺の参道からそのまま西に伸びる小径は江戸時代からあった村道ということです。
▲玅笑寺の参道前の鉤の手
南から来た旅人が出会うこの津野の鉤の手辻が、長沼では最後のものです。ということは、城下街ないしは天領代官所陣屋がある街並みはここで終わるというわけです。
城の縄張りまたは陣屋の軍事的な防御機構は、津野集落で完結しているということです。鉤の手の脇には玅笑寺という大きな寺院が置かれています。往時、この寺院は多くの塔頭(支院)と広大な境内を擁していました。ここから北は、江戸時代初期でも、城の防御には直接には関係のない郊外・農村部という位置づけだったのです。
津野村は、南側は城の防御システムと街集落という性格をもっていましたが、北側は郊外農村という性格を備えていたのです。
▲津野の旧街道沿いの家並み
私が津野の写真取材に来た日(2月後半)は、真冬の寒気団が襲来して夜来の雪が晴れ上がった朝でした。まだ空には厚い雲がたちこめてていたのですが、陽が高く上るにつれて晴れてきました。
積もった雪が建物や道路の陰影を際立たせています。30年ほど前には、この辺りでも50センチメートル以上の積雪が不通にあったので、この写真の程度の積雪ではまだ少ない方です。
それにしても、長沼は雪景色が似合うところです。果樹園越しに寺院や家並み景観をここに掲載しておきます。
リンゴ園というものは、善光寺平のある歴史の断面を表しています。明治維新後、近代化が始まりました。信州の農村が近代経済の建設のために最初に取り組んだのが、養蚕です。長沼では、養蚕は幕末期から始まり、大正時代から昭和前期まで養蚕業が隆盛しました。茅葺屋根から瓦葺き総二階造りで、養蚕に合わせて屋根大棟に空気取り入れ口と小屋根を載せた家屋がつくられました。
昭和中期、戦後期にはリンゴ栽培が盛んになりました。これは長沼だけでなく、善光寺平一帯に広がった風景です。リンゴ園が家並みと融合する景観は、まさに長野の昭和期を代表する姿だったのです。1960~70年代に少年少女時代を過ごした私たちの年代には、長沼の風景は郷愁を誘う風景なのです。
▲洪水で廃墟となった無住の古民家
▲忠恩寺跡の草原に立つ阿弥陀如来座像
さて、長沼地区にも過疎と高齢化の波は押し寄せています。先年の洪水被害は、その破壊の爪跡によってその変化を残酷なくらいに顕示したのです。集落内には、後継者がいなくなって荒廃が進む古民家が目立つようになりました。
水害で廃墟となっても解体されない古民家も残っています。上の写真は、そんな古民家で、ほぼ残骸となっています。
ところが、すでに遠い明治時代に廃寺となった忠恩寺の跡地には、いまだに石仏群が立っています。建物の跡もない草原です。その姿は過ぎ去った時代を映して、むしろすがすがしさ、端正な美しさを感じさせます。
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