北国街道松代道は、改まった呼び名では北国街道東往還とも称されます。その原型は、古代からの官道を下敷きにしながら、戦国時代に上杉家が開削した越後から北信濃までの軍道と、武田家が佐久から北信濃までの軍道でした。武田家が滅びた後に、上杉家が北信濃を統治することになり、北国街道の原型を建設しました。
その時代には、牟礼から長沼を経て福島宿へと千曲川を渡り、東岸を屋代(矢代)にいたる往還、すなわち松代道が北国街道の本道と定められていました。
1932年頃の長沼宿(上町)の松代道の様子▲
昭和30年代の豊野町の神代立町通りの姿▲
牟礼から善光寺に向かい、丹波島の渡しで現在の川中島を経由する道筋が街道本道となるのは、千曲川・犀川水系の大がかりな流路変更にともなう地形の改造がほぼ終了した時代(18世紀半ば)になってからのことでした。徳川家の覇権のもとで幕藩体制が持続した期間のほぼ半分(120年間以上)は、北国街道の幹線は松代道だったのです。
江戸時代の後半になっても、犀川の流水量はきわめて大きかったので、大雨が降れば善光寺の南の丹波島の渡しでは川止め(渡河禁止)となり、旅人と輸送貨物は松代道に回るしかありませんでした。そのため、松代道は「雨降り街道」と呼ばれていました。
善光寺街道が北国街道の本道になった頃、農業生産と商工業が発達して物流量が飛躍的に増加したこともあって、飯山から松代宿や屋代宿まで舟運が公認の輸送路となりました。長沼と福島、松代、屋代を中継拠点とする旅行や輸送交易が大いに繁栄したそうです。
福島宿は北国街道の本道のなかでもっとも繁栄していた宿場街です。谷街道や大笹街道とも連絡していたうえに、江戸時代中期には千曲川舟運も公認され、北信濃の物流の軸となったようです。
明治以降は田園のなかに位置する農村集落になったため、多くの歴史遺構が残されています。 |
往時の上町の姿をとどめる土蔵長屋門
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長沼の各集落は街道沿いの集落であるとともに城下街でもありました。宿駅は上町で、近隣の栗田町、六地蔵町、内町、津野村は連携して宿駅を補完する役割を引き受けていました。
クランク型の鉤の手道は、往時に城下街と宿場街の面影を彷彿とさせる歴史と文化の遺構です。
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上町通りの様子。この先、林光院の門前は鉤の手道。
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正行寺観音堂参道前から見た立町通り。南方の長沼から続く松代道だ。ここで飯山街道と出会い交差する。
飯山街道では、東隣の浅野村とともに宿場機能を分担する「相の宿」だった。
ここから北に向かって長い上り坂となる。
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麻績宿の風景
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