■寺坂から下町に入る■
寺坂――観音堂跡の西、現在の横断歩道橋から南に50メートルの場所――を北に下ると昭和後期の国道19号に合流します。この辺りが上松宿の南端で、桝形があったはずです。しかし、旧国道沿いの家並みが上松宿の下町の現在の姿です。道路は、江戸時代の幅2間半から歩道を合わせて10メートルに拡幅され整備されましたが、過疎化によって街は寂れています。
一方で桝形など往古の街道の遺構はひとつも残っていません。経済成長期に将来の繁栄を期待して建設された市街地は過疎化・空洞化したうえに、歴史の痕跡もないのです。それでも、現在の街の姿、道路の形状や敷地割りなどから往時の下町の様子を想像してみましょう。
寺坂下の下町交差点: 横に往来する道が旧中山道
広小路は往時から幅10メートルあった
現在の下町で歴史の名残りをわずかにとどめているのは、旅館「田政」で、この家は明治時代まで味噌屋「田口や政之丞」の店舗でした。その北隣の店は、薬屋「田口や新九郎」でした。両店舗ともに江戸時代から続く富裕な家柄だと見られます。
さらにその北側は広小路で、山際まで広場(火除け地としての空き地)だったはずですが、今は消防団詰所が置かれています。火除け地とは、街区に余裕がある場合の防火帯です。その奥の山裾に
稲荷社があります――機会をあらためて探訪します。街の用地に余裕がない場合には、高塀とよばれる防火壁を設けました。
上松の広小路は、幅が10メートル(6間)もある小路で、火除け地を兼ねていました。往時、西に向かって斜面を下って作場(水田など耕作地)に往く道でしたが、今も道幅は昔のままで駅前広場まで続いています。
広小路までが下町で、街区の長さは180メートル近くあったと推定されます。街道の東側には背後の天狗山中腹から沢水を引いてきて、現在の下町交差点から北に宿場用水路をつくっていました。用水は広小路を経て仲町に流れ込みました。
■仲町を歩く■
仲町の街区は広小路から一里塚まで、およそ200メートルくらいの長さです。本町と仲町との境界は一里塚の東側の曲がり角となっていました。
一里塚は街道の両側に土盛りした小丘となっていました。今は山側の一里塚跡に石碑が立っています。山側の一里塚は「上ノ山」という小さな尾根裾に築かれていました。塚の脇から始まる細道は、山裾斜面の壇上に祀られた津島社への参道となっていて、神社から先は背後の天狗山の尾根を越えて寺坂や小川に向かっていたと見られます。
このように中山道の曲がり角から天狗山の尾根に向かって分岐する脇道があったことから、曲がり角には軍事的防衛のために桝形が設けられていたかもしれません。
ところで、下町から流れてきた宿場用水は、本町との境界となっている一里塚の東側で本町から流れてきた用水路と合流して、街道から西に折れて、作場に向かって流れ下っていたようです。宿場用水は宿場街では洗い物などの生活用水として利用され、街道から外れると農業用水となっていました。
用水路の脇には防火のための土塀、防火壁が設けられていました。木曾路の各宿場では、火災の経験から延焼を食い止めるため、町割りに余裕がある場合は広小路が設けられ、手狭な場合は高さ4メートル前後の分厚い土塀(高塀)が築かれていました。
宿場用水の整備と防火壁の建設のために、すでに江戸中期までに一里塚は除去されていたかもしれません。街道制度の発足当初には重要視されていた一里塚は、やがて街場では撤去されたようです。ただし目印のために石碑や石塔が置かれたのだとか。
一里塚跡の石碑が本町と仲町との境界
■宿駅の中心、本町■
本町は街道に沿ってだいたい180メートルの長さの街区です。
ここは、宿駅=宿場街の統治の中枢をなしていて、本陣と脇本陣、問屋などの町役人(村役人)の屋敷が集まっていました。玉林院という寺院は本町に属していました。これらは神仏習合の格式のもとで一体化していたはずです。
残念ながら、町役人の屋敷が並ぶ家並みは残っていません。
江戸時代に火災が繰り返したことと、昭和期にも大火があったことから、上松宿に関する史料文物の大半が失われているので、宿場の来歴はわかりませんが、宿駅の発足当初は上町と本町だけだったのではないかと印象を受けます。
その頃の中山道は、本町の南端で、上ノ山・天狗山にのぼり、尾根を越えて寝覚あるいは吉野方面に向かっていたのではないでしょうか。
地形や家並みが昭和期に改造されてしまっているのですが、妻籠宿では発足当初には寺下以南の街並みがなかったという事情と似ているのです。
17世紀後半、寺坂の南側の宮前に尾張藩材木奉行所が設立されたことにともなって、上松宿の行財政や街並みの規模・形状が変わっていったものと見られます。ことに下町は、上松に付随する農村地帯が宿場街に組み入れられた印象が強いのです。
脇本陣の裏手は醸造業者だったか
脇本陣の高麗門の遺構(河原に葺き替えられた)
■一番小さな街区、上町■
上松宿の北端にあるのが上町で、通り沿いの家並みの長さは150メートルくらいで、最も小さな街区です。
上町組と本町組とを分ける小路は、玉林院境内の北側にいたる小径ですが、現在の道幅は往時の半分以下になっていると見られます。江戸時代にはこの小路の本町側に高塀(防火壁)が築かれていましたが、明治以降に塀を撤去して道幅を狭めたようです。
1950年の大火では、風向きと高塀のおかげで上町側は延焼を免れたため、街区の通りの曲がり角に幕末以来の古い町屋がいくつか残っているそうです。
そういう古民家の特徴は二階の丈が極端に小さくて、建築様式としてはこれを厨子二階と呼びます。当売りの面した側の二階の高さはせいぜい60センチメートルほどで、人が居住できる区間はなく、もっぱら屋根裏の物置部屋として利用したそうです。
街区の北端には桝形が設けられていました。桝形とは、角に石垣を施して経路をクランク状に曲げ、直角に2回曲がらないと宿場への出入りができないようにする仕かけです。桝形を出ると沢の谷間に十王橋が架されていました。この辺りの地形は、護岸工事や、道路、橋の建設で大きく変わっているようです。
往古には、十王橋の南袂の脇に十王堂がありましたが、十王沢の氾濫で流失してしまったのだとか。その十王堂が建立されてから、かつては小野川と呼ばれていた渓流が十王沢と改称されたと伝えられています。そして、沢の対岸の尾根裾には馬頭観音が立っていたそうです。
2本の橋に挟まれた対岸の岸には現在、地蔵尊や馬頭観音などの石仏群が集められています。馬頭観音は対岸にあったもので、地蔵は十王堂に祀られていたものだとか。
幕末からの古民家は厨子二階造り
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